経営者支援 ITコーディネート業務効率化システム構築

  • 清水 尚志

第四章 社会的責任 その②

17 社会的責任の限界


本来の機能を遂行する


マネジメントは、組織に対する召使である。従ってマネジメントの最大の役割委は、組織を機能させ、その目的とする貢献を果たさせる事にある。


社会が求めるそれぞれの組織の特有の機能を遂行できなければ、社会の損失である。


いかなる組織も、本来の機能の遂行という最大の責任を果たさなければ、他の如何なる責任も果すことができない。破産する企業は、望ましい雇用主ではなく、社会においての良き隣人でもなく、働く者の為の機会を生み出すことができない。


つまるところマネジメントは、事業上のリスクを負い、将来の活動に着手する上で必要な利益の最低限度を知っておかねばならない。意思決定する上で、この限度を知らなければならない。


しかし、彼らが利益の必要性とその機能について無知である限り、すなわち、利益動機なるものについて考え、論じている限り、社会的責任について合理的な意思決定を行う事も、組織内外に説明する事もできない。


社会的責任に関しては、企業以外の組織にも限界がある。組織の機能を危うくしては、いかに高尚な動機でも無責任と言わざるを得ない。


能力と価値の限界


自らに能力がないのに引き受ける事も無責任である。


特に組織は、自らの価値体系に合致しない課題に取り組むことを避けねばならない。熟練や知識は容易に手にできるが価値観を変えることはできないからである。自らの価値体系に合致しない取組を行えば、必ず誤ったことをする。


権限の限界


社会的責任に関する最も重要な限界は、権限の限界である。


権限を持つ者は責任を負う。逆に責任を負う者は、権限を要求する。責任と権限は表裏一体である。社会的責任を負うとうことは、常に社会的権限を要求することを意味する。


しかし、企業が社会的責任を要求された場合、マネジメントは、責任に伴う権限が正当であるかを徹底的に考えなければいけない。さもなければ、越権と無責任を招く。


企業が責任を要求された場合、「権限を持っているか、持つべきか」を自問する必要がある。もし、権限を持たず、持つべきではない場合、責任を負うこと自体の是非を疑うべきである。極めて多くの分野において、企業はそのような権限を持つべきではないし、仮に持とうとするならば、権力欲の一つの表れでしかない。


企業、国などの組織が果たすべき最大の貢献、すなわち最大の社会的責任とは、自らに特有の機能を果たすことである。しがたっが、最大の無責任とは、能力を超えた課題に取り組み、あるいは社会的責任の名も下に他者から権限を奪う事によって、自らに特有の機能を遂行するための能力を失う事である。


18 企業と政府


政府との関係をどう考えるか


企業のマネジメントにとって、社会的責任に関わる重大な問題の一つとして、政府との関係がある。しかし、この関係は、マネジメントの社会的責任が論じられるときに触れられることはない。


われわれは、組織社会の実現とニーズに応じた新し政治理論を必要とする。そかし、そのような理論を手にする間は、政府と企業が協力して取り組むべきものと、個別に取り組むべきものを見分けなければならない。


例え個別の課題であっても、問題の考え方や基準を手にしておかなければならない。しかも、その中間的な解決方法が、われわれを間違った方向にコミットさせ、優れた解決の道を閉ざし、政府と企業の間に間違った関係をもたらすことが無いようにしなければならない。


これらの中間的な解決策を考え、その実行について監視する事は、マネジメントの仕事である。


歴史上のモデル


政府と企業との関係を律してきたのは、自由放任ではなく、重商主義と立憲主義である。


重商主義のモデルでは、経済とは国の主権、特に軍事力の基盤である。国家経済と国家主権とは同じ広がりを持つ。このモデルでは、企業人は官僚に比べて社会的に劣るとされている。ビスマルクのドイツや第二次世界大戦前までの日本がそうだった。今日においても、行政に関わる者の任務は、企業を支配し、強化し、奨励する事であり、特に輸出を支援し奨励することとされてる。


一方、アメリカで発達した立憲民主モデルは、基本的に政府と企業は対立関係にあるとする。両者の関係は、行政によってではなく、法律によって規制されるべきであるとする。立憲主義も重商主義と同様に、自由奔放主義を信じていない。つまり、指導するのではなく、「~をするな」と規制したり、刑事告発したりするのである。


この二つのモデルは、政府と企業の関係を決定づける事は出来なかったが、政府と企業の関係に関わる問題を、その都度解決する上では役にたった。


新しい問題


今日、立憲主義も、重商主義も陳腐化した。その理由は、


①混合経済の進展

政府と企業の活動が絡み合い、競合関係にある混合経済では両主義は役に立たない


②グローバル企業の発達

経済は国際化したが、政治主権は、いまだに完全に国家主義であり、それに代わるものが登場する気配もない。


③社会の多元化

組織社会において政府は特有の目的を持つ無数の組織の一つに過ぎない。そのような世界では、政府以外の組織リーダ、特に企業のマネジメントに社会的責任が生ずる。


④マネジメントの台頭

オーナー企業家に代わるマネージメントの台頭がある。政府省庁の人間もまた、他のあらゆる組織の指導者と同様にマネジメントとなりつつある。


この新しい事態の発展が、政府と企業の間の昔からの境界線を無くした。


解決策を判断する基準


如何なる恒久解決、政治理論、モデルも存在しないとしても、政府と企業との関係に関わる個々の問題は解決せねばならない。

個々の問題の解決において、国、政府、経済企業にとって基本的かつ長期的観点から必要とされるものを強化し、あるいは少なくとも守ってゆくための指針が必要である。


より多くの法律は必要ない。四つの最低限の基準を満たすだけで良い。


①企業とそのマネジメントを、自立した責任ある存在としなければならない

②変化を可能とする自由で柔軟な社会を守らなければならない

③グローバル経済と国家の政治主権を調和させねばならない

④機能を果たす強力な政府を維持強化しなければならない


19 プロフェッショナルの理論-『知りながら害をなすな』


企業倫理以前の問題


これまで、企業倫理や企業人の倫理について数えきれないほど説かれ、書かれてきたが、何ら企業と関係がなく、倫理ともほとんど無縁の事ばかりであった。


第一に、書かれている事の多くは、全く単純な日常の正直についてだった。企業人たるものは、ごまかしたり、盗んだり、嘘をついたり、贈収賄したりしてはいけないと語られているが、これらは企業人だから行ってはいけない事ではなく、人間だから行ってはいけない事なのである。


第二に、倫理的とは全く関係のない点を問題視している。コールガールを雇う事は、倫理上の問題ではなく、美意識の問題である。自分自身の鏡の中の顔が「ポン引き」であることを良しとするか、否かの問題である。

しかし、残念ながら、長い歴史の中でこの潔癖さを、王、貴族、僧侶、将軍などの指導者や、ルネッサンス期の画家や人文学者、中国のインテリ層の間に、一般的な資質として広まったことは一度もなかった。


最近、アメリカでは、第三のテーマが加わった。すなわちマネジメントは、、地域社会のおいて積極的かつ建設的な役割を果たす倫理的な責任、すなわち自ら、自分の時間を地域社会の活動に使う倫理的な責任があるというものである。


だがこの種の活動は強制してはいけない。報酬を受けたり、昇進にに影響があってはならない。この種の活動を命令する事は、組織力の乱用になる。


地域社会へ活動に参加する事は望ましいが、倫理とは関係ない。責任とも関係ない。ただ、隣人として、一市民としての資格における個人の貢献の問題である。仕事の外にあるもの、マネージメント関わる責任の外にあるものである。


リーダー的地位にあるものの責任


リーダ的地位にあるグループとしての責任とは具体的に何か。


答えは、本質的に「プロフェッショナル」であるという事である。


リーダ的地位にあるグループの一員であるという事は、ある身分、地位、卓越性、権限が与えられている。同時に義務も与えられている。


マネジメントにある者すべてリーダであるわけではないが、マネジメントの立場にある者は全て、リーダー的地位にあるグループの一員として、プロフェッショナルの倫理を要求される。すなわち、責任の倫理を要求される。


「知りながら害をなすな」


プロフェッショナルの責任は、2500年前のギリシャの名医ヒポクラテスの誓いの中に「知りながら害をなすな」と明確に書かれている。


プロと言われる、医師、弁護士、マネージャー、いづれも顧客に対して、必ず良い結果をもたらすと約束できない。最善を尽くすことしか出来ない。しかし「知りながら害をなすことはしない」と約束しなければいけない。顧客は、「プロたるもの知りながら害をなすことはしない」と信じられなければ、何も信じることが出来なくなる。


また、プロは、自らの知識と判断により決定するという意味では「私的な存在」ではあるが、私的な利害によってではなく、公的な利害によって動く点が、プロに与えられる自律性の基礎であり、根拠である。


そして、このプロの倫理の基本が「知りながら害をなすな」に集約されている。


アメリカの社会的病い


アメリカの所得格差は縮小しつつあるが、一般社会では、格差が拡大しているとの印象を受けているが、実は錯覚である。不平等化の錯覚は危険である。錯覚は、共に働く者の信頼関係を破壊し、やがて、社会、経済、マネージメント自身に対して、害のある措置がとられるだけである。

巨大企業の経営者は、年収50万ドルをえているが、ほとんどは税金に消える。それは、所得ではなく身分である。いづれにしても経済的には大した意味がないが、社会心理的には、「知りながら害をなしている」と見られる。その結果、マネジメントが最大の被害者となる。


「知りながら害をなすな」の原則は、今日の社会的責任に関する宣言は、政治性に比べると、いたって平凡にみえるが、守ることは容易なことではない。

そして、まさにこの平凡さが、「知りながら害をなすな」の原則を、マネージメントの倫理、すなわち責任の倫理にとってふさわしい


これで、Part1 は、終了です。ページ数的には、115ページまで読み進めました。


Part2は、マネジメントの方法です。より実践的で、具体的な話となりますので、ご期待ください。












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